明智さんという、年下の、性質も暮らしぶりも、きっちりした知人の女性が、一軒家を購入したというので、招かれたのかどうか、はっきりしないまま、私は、御祝いも手土産も持たず、訪ねていった。
明智さんの館のある国は、空気が恐ろしく乾いていて、地面も建物も、砂漠の色をしていたので、とても日本だとは思えなかった。チュニジアやモロッコなどの北西アフリカというより、スペインの地方都市の外れにあるように思える。
「スペインも含めて、マグレブ、と言った時期もあってねえ」
明智さんの家の、黄砂色の塀の前で、見知らぬ女の人の声がして振り向いたけれど、そこには、誰もいなかった。
振り返って見た通りは、岸田劉生が晩年に描いた坂道の絵に似ていて、少し気分が滅入ったが、気をとりなおし、塀の向こうに植えられている、緑の葉をつけた木々に、私は、オレンジの橙色を探すことにした。
まるいオレンジの実を確認すれば、ここが、取り敢えずはスペインだと納得出来、そうなれば、なんだか安心な気がしたのだ。
明智さんの家は、中古物件だったらしく、大きいけれど、深いスタッコ仕上げの陰影に、経年の汚れが目立つ。箱を幾つか組み置いたような形をしている。単純なようでいて、全容がつかみにくい。
その屋上の砂灰色の空間には、既にデッキチェアやテーブルが配置されていた。緑色で生地のしっかりした、大きなパラソルまで開いている。この家の前の持ち主が置いていったのだろう。いや、一軒家を購入、ということで、普段は堅実な明智さんが買い揃えた、ということもありうる。
そして私は、玄関ではなく、屋上の大きなパラソルの下を通過して、今、何故だか浴室にいる。
その直前に、明智さんの着替えや、外套、バッグまでが、脱衣所のフックに掛けられているのを目にし、「流石、きちんとした性質のひとだ」と、感心し、その瞬間は、長身の明智さんも、そこで着替えをしていたと思ったのだが、彼女はなんだか、ゼザンヌの描く山のような色彩とタッチになっていて、会話が出来なかった。
明智さんの浴室の足元も、印象派の画家の手による山じみた彩りだと見ていたら、それは、温泉をひいた、昭和のビジネス旅館の風呂場を想わせるタイル張りだと気づいた。緑と、薄緑と、ベージュの四角や楕円で、よく分からない柄になっている。
深く、お湯に満たされた浴槽にも、同じようなタイルが貼られていた。体育休めの態勢で膝を抱えたら、十人は浸かれる広さだ。
ふと、鈍い銀色のカランを捻る、大小の老班だらけの手の甲が、視界に入った。
「あ、内山田さん、お久しぶりです」
手の主は、郵便局員だった内山田さんだ。
故郷で、最後に見た時、内山田さんは、原付バイクで砂利道を、よろりよろり走っていた。
あれ、内山田さんだけじゃないや。
故郷の、既にもう、鬼籍に入った方々が、着衣のまま、昔の銭湯でするようなことをしている。お爺さんもお婆さんも、ワイワイ、背中を流しあったりしているのだ。
「ああ、内山田さんも、此の世にはいないんだな。私の夢って、色々暗示するからな」
夢のなかの私は、そう小さく呟く。
いつのまにか、5歳ぐらいだろうか、男の子が、件の老人達に挟まれて、ぽつんと、立っているのだった。内山田老人のお孫さんのように思えるその男の子は、裸で途方にくれている様子だったが、私は、どうしていいものか、わからない。
内山田さんも、ヤタロウさんも、ヤスヨさんも、ウメノさんも、私がいる場所を、やんわりとかわしているようで、反応はあるかないかなのだ。
私の方が、本当は、もう、存在しない側だという気がしてくる。
それでも、希望は失わずにいられた。
夜になると、すぐ裏手にある、和の香りの濃い、ちょっと豪華な温泉旅館で、夕食会があるのだ。
誰に教えられたでもなく、私には、わかっていた。
その証拠に、このスペインのような中古一軒家の周りの空気が、キリ、と引き締まり、空は既に、インディゴブルーを飛び越して、質の佳い留袖の生地のように、艶やかに黒いではないか。そこに、三日月を見ても、もはや、マグレブだとか、アラビヤだとかは、私は思わないのだ。
精進ではない、鮮やかな海の幸山の幸が、幾品も佳く盛られた和の膳の、故郷の町内会の参加者の分の連なりが、私には見える。今回は、旅館選びから、料理のコースまで、かなりはりこんだらしい。
珍しいことに、私の両親が、一緒に来ている。
まだその姿は見えないけれど、きっと今頃は、温泉から戻り、宴席に向かっている。
わかるよ。親子だもの。
私も、隣に座るんだっと。
その宴席に行くには、竹で編んだ格子戸のようなものを潜らねばならないのだが・・・。
父母のいる宴席からの、和やかな楽しげながやがや音が響いてくる頃、私は、しっかりと悟るのだった。
その格子戸は、私には、開かれることはない。
また取り残された。そう思いながら、私は再び三日月を見上げた。