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ふみちゃこ部屋



夜猫色の老婦人と「ハーメルン」のハンカチ

和製の音楽はあまり聴かないのだけれど、レ ピッシュ の「ハーメルン」という曲が好きで、ミニアルバムCDを買ったことがある。おまけとして、バンダナが付いてきていた。
うちの子らが、まだ幼かった頃だから、かなり前の話しなのだけれど・・・。
バンダナには、黒地に、本来の四つ脚動物たちが、二足歩行状態で、吹奏楽器などを、吹いたり鳴らしたりしている絵がプリントされていた。

その日、件のバンダナで鼻と口を塞いだまま、私は数時間、とある耳鼻科医院の待合室の椅子に座っていた。
“咳やくしゃみの症状のある患者さんは、マスク、あるいは、ハンカチを、鼻や口に当てて待ちましょう。医師の前では、そのまま、前を向かず、指示があるまで、ハンカチを当てたまま、横を向いて下さい。”
待合室中央の壁に、このような文言が貼られていたのだった。
自分が、未知のウイルスの体現者か人畜有害の見知らぬ生命体になったような、かなしい心許なさを覚えた。

待合室で、おそらくは、かなりの潔癖性であろう耳鼻科医から呼ばれる迄、患者たちは、おのおの其々のハンカチを口許に添えたまま、おとなしく自分の順番を待っていたのだが、私の右隣の、一人の老婦人が、その淡紫のガーゼのハンカチ越しに、私に、何か話し掛けてきた。

多分、「あなたは、どんな症状なの?」とか、「それはどのぐらい続いてるの?」や、「此処に来るまで、何処でどんな治療を受けたの?」
のような質問を受け、それに対し、私は一々、とつとつと正直に、答えていたと思う。

「喘息ていうか、咳が止まらなくて。発作で、息が出来なくなったりします」「もう二年近くなります」「内科は七カ所訪ねましたし、グミの実のシロップも試しました。耳鼻科は初めてです」

なるべく的確でシンプルな言葉をと、考えながら、私は、その老婦人を、見るとはなしに観ていた。

老婦人は、御髪を、その年代によく見られる薄紫ではなく、きっちり黒く染め、上品なウェーブに纏め、黒い毛足が豊かに遊ぶ、モヘアのカーディガンを着ていらした。上背のある方で、シルエットとしては、夜の闇に浮かびあがった体の大きな猫が、たまたま座っているような、得体の知れない神秘の気配すらあった。

「私の母親は、十歳の時に亡くなって。・・・私は、なさぬ仲のひとに育てられたの」
その大柄な夜猫色のカーディガンの老婦人は、脈絡もなく唐突に、私に言った。

ああ、これから、どんな身の上話が始まるのだろう。私は、身構えた。

しかし、それ以上身の上話が展開されることは、なかった。老婦人は、同じさわりの台詞を、唯繰り返した。認知症の症状も、入っていた、ということなのかもしれない。
どちらにせよ、彼女にとって、自らの生い立ち、半生、人生、を言い表す事柄が、“母を亡くし、継母に育てられた” という一文であり、老境の只中において、魂の芯が絶えず怯えている様子は、傍にいて、なんとも心苦しく感じられた。

たまたま、隣り合ってしまった、というだけなのか。
言葉にならぬ、説明しようもない、私のなかの何かが、老婦人のトラウマを刺激してしまったのか・・・。

昨日、なくしたと思っていた、レ ピッシュ の「ハーメルン」ハンカチが、引き出しの、子どもの小物類の段の奥に見つかった。
その、微かに箪笥のにおいの染みたハンカチをバッグに忍ばせて、私は久し振りに、あちこちと用事を足して歩いた。
途中、何故だか、発作のように、某ファミリーレストランでご飯が食べたくなり、ランチタイムぎりぎりに、オレンジ色の背凭れの座席に着いた。
私が、運ばれてきたカキフライ定食を口にする頃になると、家族連れや、友人同士、仕事の合間らしき方などは、既に食後のコーヒーも飲み終え、レジへと向かっていた。

「何やってんの。汚いっ。いい加減にしてって、言ってるでしょっ」
レジから遠い、隅の席で、お母さんが子どもを叱っている。
言うことを聞かない幼児に対してなのだろうが、それにしても、キツい言い方だな・・・。

その後も、店内に、母親の声が幾度も響いた。
「んもうっ、汚いっ、いい加減にしてっ、何やってんのっ」

異様にヒステリックな母親の声の響きに、其方を見ると、幼児用の椅子に固定され、叱られているのは、幼児ではなく、まだ、ほんの赤ちゃんだった。

母親は、本来であれば、横顔が此方から見えていい角度と場所に、位置しているのだが、椅子の背の側を、此方に向けているため、その様子がよくわからない。

けれど、叱りながら、ガーゼのハンカチか、備え付けのペーパーかで、赤ちゃんの頭や額、頬を、嬲っているのが、その白い手が、見えた。
桃色のベビー服にくるまれた、赤ちゃんは、泣き止まない。

お客の失せた店内は、その、子を詰る声に、嫌な緊張感を帯びていたのだが、母親の実際の行為を目にしているのは、私だけだ。

・・・微妙な状況だった。
いつもは優しいお母さんが、今日はちょっと行き詰まっただけなのか、いや、かなり厳しい躾を教育方針としているのか、・・・でもやはり何か、間違っているように感じる。

唐突に、こみ上げて来るものがあった。
目から何か滲んだから、涙には違いないのだが、それは早くも、うっすらとした無力感をともない、直ぐにひいていった。

卑怯な私は、そそくさとレジを済ませ、身障者用トイレに飛び込むと、「ハーメルン」のハンカチで、涙を拭いた、いや、正確には、化粧の滲みを整えた後、何も見なかった者のように、ファミリーレストランを後にした。
by chaiyachaiya | 2013-12-13 23:18 | ねこの寝言
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