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ふみちゃこ部屋



虫籠いっぱいの愛と不二家ミルキーの思い出

大好きだった童話絵本の挿絵の、低学年向けらしく、カジュアルタイムでも頭上に大ぶりな金色の王冠を戴いた王さまが、十一人の王子たちとエリザ姫が子供らしい遊びに興じている様子を見降ろしたり、後添え王妃の魔女が、呪いをかけて白鳥に変えた王子たちを追放したりした、石造りの城の見晴し台よりも、うんと低い場所にあったに違いないのだが、たった一度だけ、Kくんが、私たち級友を、薄暗い階段を手招きして連れて行ってくれた、Kくんのお父さんの仕事場の屋上からの眺めは、私のなかで、王子たちとエリザ姫の父王の領地に繋がったままだ。

見降ろすどちらの平原にも、高い建物は無く、緑が多くあった。

時々、私は、気がつくと、今はもう存在しない、Kくん所縁の建物の屋上に一人立ち、物語からの薫風が、頬を撫でていくのを感じる。
それは、切ない幸福感に陥るための眩暈のようでもあり、不意に、やって来ては、去っていく感覚だった。

幼稚園の頃、毎日のように、Kくんと遊んでいた。
Kくんがいなければ、私は、おんぶ状態の殿様蝗を見ることもなければ、茶色い液体を体から染み出させる醤油蝗というものを知ることも、艶消しブルーグレイのシオカラ蜻蛉や、鬼ヤンマの黒い脚先のざらざら感、タニシが川に生きてることも、わからずに、縫いぐるみのクマさんや、我が父チョイスのマイナーな着せ替え人形スカーレットちゃんと、孤独を囲って部屋に籠っていただろう。

幼稚園児にして、Kくんの貌は、例えば、古いのだけれど、昭和の、日活ニューフェイスの和田浩二及び、石原裕次郎のごくごく初期の頃の、見事に完成された美丈夫ぶりを誇っていた。Kくんは、そこにいるだけで、華があった。
可愛さとは無縁の、ぼうっとしたいじめられっ子の私は、幾たびもの、
「◯◯ちゃん、目瞑って」
に、「お口開けてて」が加わった時も、疑いもせず従い、虫歯だらけの奥歯まで全開にしては、園友によって、砂泥団子を口腔に突っ込まれたりしていた。
様々な目にあっても、つい性善説に依った行いをしてしまう、という人間認識の甘さは、今に続いていて、やや情けなく思う。

Kくんは、多分、わざわざ、いたぶり易い私をいたぶって、好い気分になる必要のない子供だったのだろう。
「◯◯ちゃんと、席隣りになれば良かったのに」
幼稚園の教室での席替えの後、振り向いて、そう言われると、挫けずに、やっぱり明日も生きていこう、と意を新たにしたものだ。
Kくんが持っていた七色のロウ粘土を、皆が欲しがった時も、Kくんは、一本、私の掌にだけ、分けてくれた。ああ、貰ったロウ粘土の色は、インデイゴブルーだったような気がする。時を遡って確かめられるのなら、命の時間が削れてもいいのだが・・・。

或る日、西日が黒ずむまで、おもいきり、Kくんのお父さんの仕事場の庭で、蜻蛉取りをして遊んでいたところに、母が、車で私を迎えに来た。
おとなしく座席に座った私越しに、助手席のドアを開けた母は、Kくんに、薄茶色の紙袋から不二家ミルキーキャンディの大きなおまけ付きBOXを取り出し、手渡した。目の前を通り過ぎた魅惑の品に、小さい私の心は、衝撃で張り裂けそうになった。
「お母さん、わたしのは? ◯◯の分のミルキーは?」
愚かにも、私は聞き、自分の分が無いと知るや、大泣きを始めた。
「◯◯ちゃん、蜻蛉、これ、いっぱい、ぜんぶ、あげるから」
さっきまで、蜻蛉と蝗で上機嫌だった園友の豹変振りに驚いたKくんは、困ったような、どこか大人びた真摯な表情で、自分の虫籠の口を開き、ありったけの蜻蛉や蝗を、私の虫籠に移動させた。
肩からかけた黄緑のケミカル素材の虫籠は、蜻蛉で犇き合い、羽音でごった返した。
私の泣き声の雫は、走り去った車から、尾を引いて、きっとKくんの足もとに、穢く零れ落ちていたことだろう。

幼児の私にとって、Kくんの虫籠いっぱいの愛よりも、おまけ付きミルキーキャンディBOXの方が、よほど大事だったのだ。その時の自分の有り様は、思い出す度に、今でもちょっと恥ずかしい。

ところで、その頃私は、モネもマネもドガもセザンヌもルノワールも、知るはずのない幼稚園児だったのだが、音の無い、不思議な夢を見ている。
印象派の筆致で画かれたような薄闇のなかを、遊覧船想わせる甲板の上、小ぶりながらコルセット仕立てのドレスを着た大人の私は、紳士のKくんと寄り添い、旅をしていた。いや、時間が縦に流れる旅をしている、というより、永遠を漂っている、という方が似つかわしかった。
どんよりと、揺蕩い、気怠いのだけれど、魂は、もうすぐ本来の故郷に辿り着きつつあるような、静かな歓びに満ちていた。そして、この船の浮かんでいる場所が、通常のこの世ではないことを、既に悟ってもいた。

時空を超えて、Kくんの未来を暗示するような夢を、私は、見ていたのだった。

二十歳を迎えることなく、Kくんは、神さまの傍に呼ばれてしまった。

とても美しい命の持ち主だった。

私は、それから三十余年、今のところまだ、なんとか生きている。不思議なことのように思う。
by chaiyachaiya | 2013-03-10 08:10 | ねこの寝言
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