私の母は、料理が得意ではなかったけれど、叔母はかなり料理上手だったので、恩恵に与かる事が多かった。
徹底して手間隙を惜しまぬ叔母が、或る時、小学生の私の為に作ってくれたお弁当は、今でも忘れられない。
お弁当箱の中に、おにぎりとサンドイッチが、両方、入っていた。
どちらも、ミニチュアのような、一口サイズ。
おにぎりは、お団子のように、串に刺してあり、サンドイッチは、透明なセロファン紙で、キャンディのように包まれていた。
可愛らしく海苔や胡麻を貼りつけたおにぎりの具は、鮭や梅干しや、おかか。
小さなサンドイッチの具材も、色とりどりなだけではなく、茹で卵のフィリングもポテトサラダも、叔母の手によるもの。
主菜副菜ともに手抜きはなく、例えば定番海老フライの衣には胡麻が混ぜてあったり、青菜のお浸しは、卵の薄焼きで巻かれていたり、お弁当箱を開けたものの、子供の私は、しばらくの間、首を垂れ、呆然と、叔母自身の箱庭療法のような、お弁当ワールドに浸っていた。
今だったなら、料理レシピのブログで、ファンを得ていただろう。
私が叔母のスピリットを引き継いだ瞬間が、一度だけあり、幼稚園の子供のお弁当に、鶉の卵で焼いた小さな目玉焼きを、花や星の抜き型を使い、太陽やお花としてトッピングした事があるけれど。
叔母の得意だった太巻き寿司を、私は未だに上手く、いや、下手にも、どうにも、作れないままだ。
色んな具材を巻くそれを、綺麗に仕上げるというのは、来世に繋ぐ課題の一つにするとして(来世への課題の引き延ばし事項急増中。トホホ。)、先日、スーパーマーケットのお惣菜コーナーで、叔母の太巻き寿司のように、多色使いで、きっちり巻かれた太巻き寿司を、私は見た。
そして、私の視線は、【半額】というシールが貼られていた一個のパックに、フォーカスされていった。
いっときの迷いもなく、私の右腕は、右端の唯一の半額のパックに手をかけた。
その時だった、未だ正価のままの、3段づつ、奥にももう1列、陳列された太巻き寿司6個入りパック達が、勢い良く、手前にスライディングして来たのは。棚の縁に高さを持たせていず、落下すれば、下段の細巻き達を、直撃する恐れがあった。太巻き達も、パック内部でもんどりうち、商品価値が下がる事間違いありますまい。
慌てて、元に戻そうと試みても、ひとつ収めると、それが刺激となり、次々、滑ってくる。
夕刻のスーパーマーケットで、自らが千手観音でなかったことを、こんなにも悔しく思うなど、予想していなかった。
割引シールを貼っていた店のひとは、既に遠く、メガネをかけた女性の客は、こちらを一瞥したものの、きっと、素通りして行くのだろう。
一瞬の後、けれど、そのメガネの女性は、私の傍に来てくれた。
腕の数は、倍になって、4本。千手観音にはかなわないが、目には見えない暖かい腕が、いっぱい動いていたように感じた。
「この半額の、取ろうとして、始まったんです」
と言う私に、彼女は、
「押さえてますから、さ、どうぞ」
私は、極めて危険な物質に刺激を与えないようにする遣り方で、陳列棚から、目当ての太巻き寿司を抜き取り、カゴに入れ、正価の太巻き寿司パック達が、私達の手を離れても微動だにしないことを、その女性と確認しあい、惣菜コーナーを後にした。
見ず知らずのひとの親切を受け、もう端っこが乾き始めていた太巻き寿司も、妙に美味しく感じられる夜となった。