米国におけるショッピングセンターとショッピングモールの違い、というのが、今頃わかった。
ニューヨークに住んで米国の投資会社で仕事をしている女の人・・・って、さらり、ニューヨーク在住のキャリアウーマンと書けば済むのですが、なんだか、むずむずしてしまう。自分のことでもないし、いや、自分のことじゃないから、勝手にこじれた照れ方をしているのか。自分の心のありようにかなう表現を探して、時々わたしは、かえって伝わりづらい、難儀な道をいくのだった・・・が、教えてくれたのた。
ショッピングセンターのほうは、同じ敷地に、ホームセンターやドラッグストアなどを有し、日常的庶民的な展開をしている。
モールのほうは、もう少し高級で、ブランドショップも入ったり、大きな一つの建物であることが多い。
米国の若い歌手が、「ショッピングモールで歌ったわ」とインタビューで話していたのを、思い出したりする。
その日、百貨店でもない、米国型ショッピングセンターでも、モールでもない、日本型ショッピングセンターのお手洗いに向かっていたわたしの前を、車椅子の女の人が進んでいた。
その女性も、お手洗いに向かっている。
すぐに、わたしは肝に命じた。というより、神に祈った。
わたしが、ひとりよがりな過剰な親切にはしり、車椅子の女の人に、いやな思いをさせませんように。
女の人は、様式トイレのドアを押し開こうとして、難儀しているように見えた。
動きのない時間が、かなり長く続いた。・・・ように感じること自体、何か手伝いたい、という願望のなせる技だったもしれない。
他者を助けたい、というより、関わりたい、という感覚。正確に言えば、きっとこれは、親切心ですらないのだろう。
「なにか手伝うことはありませんか?」
わたしは、声を抑えて、言った。笑顔も控えた。
「ありません」
即座に、女の人はかえしてきた。
振り向いたその顔の片側は、骨が粘土質に変わったのに気づかずに、顔の筋肉にそって外側に強くマッサージされたような形をしていた。
わたしが声をかけなければ、女の人は、振り向かずに済んだのだ。
という、解釈もまた、勝手な思いなのだろう。
相手の立場にたって考える、というが、わたしの頭は、ときどき混乱している。