幼児の頃から断続的に、中年以降は二十年近く、猫と一緒に暮らしているというのに、猫の神秘や美が、すこしもわたしの見た目に影響をあたえず、きょとんとしたワンコのポチ顔のままなのが、不満だ。
猫顔のゆく末が、鍋島家の化け猫タイプの老女になることだとしても、望むところだったのに。
「あなたの顔のチャームポイント、わかりますか。そのかわいい鼻ですよ」
バーのカウンターで、隣の席の男性客に言われたのは、去年の秋の終わりだった。
「ぐえっ、ぎゃあ」
生まれて初めて、好きではない自分の鼻を褒められたわたしは、著しく反応してしまった。
『あなた、頑張って下地ととのえ、上手くアイライン引いて雰囲気美人ねらっても、本来の、鼻穴丸見えのとぼけた顔は、ぼくには誤魔化しがききませんからね』
と、言われた気がしたのだ。
はい、美しく自由な猫ではなく、いつもご主人様の意向を気にしてる駄犬ポチでございます、と心のなか独りごちる。急に、もの凄い距離で飛躍して、卑屈になってしまうわたしだ。
犬が嫌いではないのに、高校時代、古文の女教師から、授業の最中、唐突に、「あなたの顔、ワンコみたい。ポチっていう感じ」と言われたことを、いまだどこかで引き摺っているらしい。
かといって、わたしが若い時分に出逢った猫顔は、必ずしも神秘と美に寄ったものではないのだが。
・・・二十代の初めに、猫を二十数匹飼っているという女性と、数時間一緒だったことがある。そのひとが住居で経営する喫茶店での、十人ちょっとの、緩いパーティに、職場の同僚に誘われて出掛けての、一度きりの縁だった。
その猫多頭飼いの女主人とは、最初の挨拶の後、ほとんど会話せずに、帰ってきたと思う。
彼女は、わたしの倍の年数は、生きている感じだった。頸から背中がこんもりと肉厚で、様々な和風の布を、無国籍風になるまで重ね縫い合わせたものを纏っていた。顔は、丸いが、顎はキュッと窄まっている。化粧は、アイラインだけ、しっかり上向きに、黒々と引いていた。長いウエーブヘアは、本来のものなのか、ソバージュと言われる髪型を放置した結果なのか、わからなかった。
演出もあるが、いわゆる猫顔のひとつの典型だった。
その猫顔の彼女の料理で、覚えているのは、漬物だけだ。
キャベツや胡瓜や人蔘を、切らずに漬けたものが、テーブルにそのまま出ていた。
とまどいながらも、皆で、手でもいで、食べた。とても、酸っぱかった。
生き方や趣向が、見た目にくっきりとあらわれている年上の人物を前に、若く、気の弱いわたしは、押し黙ることしかできなかった。
誰かに連れられて偶々そこにいるわたしもまた、彼女の興味を引きはしなかったらしい。
女主人の全体から、猫の属性がにじんでいるのを感じながら、憧れには、繋がらなかった。
それでも、太いアイラインの揺り籠に守られた、大きめの瞳がこちらを向くと、ドキリとした。
「ちょっと、あの漬物、ダイナミックが過ぎるでしょ、いくらなんでも」
「厨房の調理台の上に、外から帰った猫たちが自由にジャンプして、そこでなんでも作ってるのよ」
などと、店から出た途端、お客たちに言われることが、わかっている眼だった。
不思議なことに、二十数匹同じ館に棲んでいるはずの猫の姿を、一匹も、どうしても思い出せない。
思い出そうと試みたら、漬物のほかに、おでんのような煮物のさつま揚げを、今、たち上る湯気と一緒に、三十数年ぶりで浮かべられたのに、猫たちの気配が、まったく見えない。鳴き声も、してこない。
なんとか記憶のすじを遡ろうとすると、最寄り駅の近くの新しい猫カフェの猫の佇まいが、まったりと思い出の視界を塞いでしまう。
まさかとは思うが、あの猫顔の女主人は、二十数匹の猫で構成されていた生きものだったのではあるまいか。
誰もいない時間、彼女がクシャミでもすると、一気にその人間の姿が解けて、二十数匹の猫たちが、館の床に溢れ、ひしめいていたのではないか。