「あの先生、依怙贔屓して嫌だ」
と言う同級生がいても、大人を信じていた小学生の私は、大人たる先生には、何かきっと、わけがあるはず、佳き御考えがあってのことで、子供達の資質やこれからを、かなり深い教育的見地から思い、敢えてなさっているのだ、と信じていました。
ですから、中性洗剤の排水が川や海の環境をおかしくしている、や、いわゆる、公害、という言葉が出て来たとき、大人達を信じていた私は、衝撃を受けたものです。
それまでは、いずれ、巡り巡って、地球環境や、人体に悪い影響を及ぼすであろう商品を売ったり、垂れ流したりなど、人類の大人はするはずがない、なんて、本気で考えていたんですから。
「石油は、後30年で地球上から枯渇する、だから新しいエネルギーが必要」
小学校の担任の先生が、真顔で仰っていました。
色々な意味で、とっても、怖かった瞬間でした。
とまれ、私は、佳い分別を持った、賢く、嫋やかな大人になりたかった。
いや、むしろ自分だったら、なれるのではないか、などと、何の根拠のなく、呑気に感じていたのですが。
・・・今日、とあるショッピングモールで、偶然、小中高と同じ学校だった男性を見かけ、思わず声をあげてしまいました。
最初は、その同級生の方も、にっこり、
「今、何処に住んでるの?」
などと、此方に訊いてきたり、だったのですが、わ、私は、擦れ違いざまに、一気に、例えば、聞くことではなく、喋る方に聖徳太子的な能力開発を自らに試み、なし得なかったひとのような症状をきたし始めました。
主語吹っ飛びくるくるマシンガントークを展開し、悲しい問わず語りな気狂いのオバさんになっていたのです。ああ。
ぺんらぺんら、何か伝えようとして話していたのですが、でものそ何かが、自分でも、なんなのか、わかりませんでした。
同郷の馴染みのひとに逢い、嬉しかったのです。けれど、余程動顛したのでしょうが、恥ずかし過ぎました。
「◯◯子、昔からどっかおかしかったけど、更年期か、いよいよ本格的に、いってしまったか」
明らかに、彼の笑顔には、こんな困惑の色が混じっていました。
わっはっは。
結構な歳月を生きて、大人、というよか、初老、という言葉がつきづきしい齢になったというのに、私は私で、子供の頃には、予想だにせぬ程、阿呆になってしまったわ。
幼い頃よか、ヒリヒリと・・・。
大人になる、って、どんなタイプの阿呆になるか、方向がしっかり定まり、つい邁進してしまうこと、のような気がしてまいりました。
あ。いえ。
私だけのケースですよね。(お、大汗)