前脚をそろえて、チンチラの女の子は、ガラスの向こうから、まっすぐにわたしを見あげていた。
わたしを見つめたまま、彼女は、にゃお、と見事な口パクをした。ガラスによって、鳴き声が聞こえなかったのではないことを、その後の生活のなかで、わたしは学ぶことになる。
家のなかで、声を出さずに鳴くのは、チンチラの女子だけだ。かならず、わたしを見つめ、ごくごく微かに、空気を振るわせる。わたしの耳に、それは女の子の頼りなげを超えて、生存の確認を急がなくては、ぐらいのレヴェルに響く。
わたしのアタマの底では、ああ、小動物の雌に、やられてる、操られてるなあ、と感じてもいる。
だども、抵抗できない。
彼女のなかでは、ニンゲンなんて、ま、少なくても、この人間かあさんをいじるのは、簡単っ、という認識が深まっているのだろう。
それでいいのだ、と思う。これでいいのだ、と頭のなかでは、も一回、バカボンパパが、だめ押ししてくる。
ところで、家に連れてきたはいいが、去勢をした(ああ、ニンゲンの都合、勝手による)とはいえ、もと雄の気配を心身に残すアビシニアンとロシアブルーが、新入りの雌を、どう迎えるのか、あるいは、迎え撃っても、迎え入れることはないのか、とても不安だった。なにかが起きるであろうことは、確実な見通し。アビとルーの魂は、大恐慌を引き起こすだろう。うまく収まる保証はないというのに。そうとわかっていて、もう一匹新しい猫を連れていこうとする自分は、ぷち人非人やもしれぬ。
次に日の午後には、チンチラペルシャの女の子は、餞に淡いピンクのリボンをお頸に結んでもらい、ハウス型の段ボールに詰められ、わたしの車に乗せられた。
別れの挨拶のとき、お店のお姉さんが、じゃあね、と言いながら、涙ぐんだように見えた。
お店の人を泣かせるなんて、この猫はなんだか凄いぞ、と、わたしは意味もなく、心のなかでほくそ笑み、そんなことでほくそ笑んだ自分に、また可笑しくなった。